マナウス BaioMafia 戦争

写真 タワー落成の日の記念写真

タワーを建てた記念撮影。右後ろが筆者。その前が娘。今はもう大学生3年だ。

AmazonタワーINVASÃO

─ タワー奪還8年の戦い

橋本捷治(はしもと・しょうじ)

8年前の夏、ついにAmazonタワーが完成し、さあ、これからの生涯かけたアマゾンの夢、アグリアス(Agrias ミイロタテハ)の生態解明にのりだそうとした矢先、私は、あやうく寄生虫のエサにされてしまうところだった。いわばカリウドバチに刺されたイモムシのごとくシビれていた。わかりやすく言うと、アマゾンの悪人どもに「橋本は昆虫の密輸をやっている」と誣告され、当局に犯罪者扱いされて、タワーも奪われ身動きがとれなかったのだ。それから8年、ようやく多くの人々の支援を得て、私は危機を脱し、タワーを取り戻した。その一切の顛末をここに報告する。

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★1★  晴天の霹靂

2001年8月16日、午後2時過ぎにやつらはジャングルに現れた。

私は左手に醗酵させたバナナの輪切りがいっぱいはいったバケツ、右手に捕虫網を持ったまま、その4人の男が一列になって歩いて来るのを見ていた。

先頭のがっしりした軍人タイプの中年白人は右手に38口径ブラジル製リボルバーを構え、左手で金色の紋章バッチをつけた黒革の手帳のようなものを私に向け「Policia Federal (連邦警察)だ」と名乗った。 傍らにもう一人、半そでのカラフルなシャツを着た人相の悪い野郎と、もう少し小柄な一見して小役人風の男、そして、肩に大きなテレビカメラを担ぎ、薄ら笑いを浮かべている若い男がいた。

「ハシモト?」銃を構えた男は聞いた。

「シ」(Sim そうだ)と私は怪訝な思いで答えた。

確かに私は日本人ブラジル移民一世で、アマゾン自然科学博物館代表、橋本捷治だ。強盗はめずらしくないブラジルだが、そういう連中ではなさそうだ。だが一体、連邦警察を名乗る男や役人、それにマスコミらしい4人組がマナウス市街から40kmも離れたこんなジャングルに何の用があるというのだろう?

やつらが用があったのは無論ジャングルではなく、私だった。

腐ったバナナと捕虫網を持つ身長166cmの東洋人に抵抗の意志がなさそうなことはわかったらしい。男はピストルを腰の鞘に戻し「Porque esta aqui?(お前はここで何をしている?)」と聞いてきた。このぐらいのポルトガル語ならわかる。私は「Pesquisa(ペスキーサ=調査)」と答えた。

男の厳しい表情は変わらない。続けて早口で何か言ったがこれはわからない。私はブラジルに移住してこの時26年。ポルトガル語は観光客に感心されるぐらいにはしゃべるが、なに、実は下手くそである。それでもこれはただ事ではないのはわかる。だんだん口の中がカラカラになってきた。

到着したタワー(1999年当時)

私は1999去年10月、日本から数万ドルかけて、世界トップの技術を持つ愛知タワー工業製無線タワーを昆虫観察用に改造してこのジャングルに持ち込んだ。もちろん合法的に輸入し、ちゃんと法的書類もそろっている。従来のタワーと違って1メートル四方の面積しか必要とせず、それでいて地上40メートルの高さまで電動で伸び縮みする画期的な塔だ。1辺が5メートルもあって周辺の樹木を伐採したあげく、建てたのはいいが周囲の昆虫はみな逃げ出してしまっていた、などというようなシロモノとはわけがちがう。

私のタワーはこれまで手付かずだったアマゾンの樹木樹冠(キャノピー)が一気に観察できる。森林を平面ではなく立体的に観察できる。1週間も上れば、新種の蝶だって見つかるかもしれない昆虫好きの夢のタワーなのだ。

到着したタワー(1999年当時)

1年たったので今日はそのメンテナンスに、友人で助手のナカシタと朝10時すぎにやってきて、作業を終えて、ついでに観察用の虫よせのえさを取り替えていたところだった。

「調査だ」という答えに、連邦警察を名乗る中年男は満足しなかった。しきりになにか言っているがよくわからない。私の答えは「ノンエンティエンデ(わからない)」である。私の語学力に見切りをつけたか、やつらはナカシタにもなにか聞いたが、彼は数年前、10万トン級タンカーの一等航海士の職を捨てて、虫屋の私の弟子志願したのだ。私以上にポルトガル語はわからない。若い男が、勝手にビデオTVカメラで私の顔を撮影している。薄笑いを浮かべて「カピツーラ?」「カピツーラ?」と何度も聞いてくる。ブルース・ウィリス主演の映画「ダイ・ハード」にこんなテレビ局員がでていた。無礼な野郎だ。

「ノンエンティエンデ」(わからない)を私は繰り返した。実際、わからなかったのだ。

このとき「カピツーラ」の意味がわからなかったのは幸運だった。私は外国語が苦手だが、わからないとき、「イエス、イエス」などとは絶対に言わない。南米に35年近くもいればそれがいかに危険なことか骨身にしみている。あいまいな笑いなどとんでもない。ピラニアやカンジェロのような相手にうっかり「イエス」と返事したために、骨までしゃぶられた日系人移民はすくなくないのだ。断固「わからないものはわからない」で通すのが正しい。

30分あまり押し問答が続いたあげく、結局、奴らもラチがあかないと悟ったようだった。マナウスの連邦警察まで来いという。何度か「ビオピラタリア(biopiratalia)」という言葉を使っていた。「ビオ」は「バイオ」、「ピラタリア」というのは、例えばCDやDVDの海賊版販売がニュースなどで報道されるたびにでてくる言葉だから私も知っている。「pirata」となると英語の「パイレーツ」つまり海賊を意味する言葉だ。

つまり「ビオピラタリア」というのは「生物密輸」という意味になる。何かとんでもない誤解があるにちがいない。 なに、誤解なら警察にいけば、すぐ解けるだろう、と私はおもった。だが、誤解していたのは警察ではなくて、私の方だった。こうしてやつらとの「8年戦争」が始まった。

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★2★  密輸犯容疑

ブラジルでは1993年、それまで野放しだった昆虫や植物の採集に厳しい制限が加えられることになった。生物資源が実はバイオテクノロジーの宝の山とわかったからだ。例えばこのアマゾンでは特別な許可が無い限り、虫も植物も採集は一切みとめられていない。違反者は実刑だ。少しならバレないだろう、などと甘く見た収集家が空港でとっつかまって刑務所に放り込まれる。

空港に設置された高性能X線透視器は金属だけでなくわずか体長5ミリの昆虫の体内水分を分別し赤く表示する。ポケットの奥にティッシュペーパーで何重にもくるんだ5mm程度の虫でも検知してしまう。だから、私は日本からの問い合わせにも、自分のウェブサイトでも10年も前からしつこくバカな真似をしないように何度も警告している

ジャングルで持っていた私の捕虫網はチョウの胴体に発信機をとりつけて放すためのものである。その為の「テレメトリー」という発信機と受信機をこの年の春、日本までいって買ってきたばかりだ。小動物のドキュメンタリー映画などでおなじみの無線チップだ。ただカブトムシやトカゲならいざしらず、当時、チョウにこれをつけようというアイデアを持っていたのは世界で私が初めてではないか、とおもっている。まあ、実際には重すぎてなかなかうまくいかなかったのだが。私はアグリアス(チョウ)の生態史を解明するのが生涯の夢で1975年にアマゾンに移住したのだ。そしてテレメトリーとタワーがあれば遠からず、それが実現すると確信していた。

連邦警察は私とナカシタを車にのせマナウスの本部に向かった。逮捕ではないが、連行というわけだ。車内では誰も話をしようとしなかった。私はなぜやつらが「ビオピラタリア」などとさわいでいるのか見当もつかなかった。無論、タワーの立っているジャングルには使っている虫かごもあった。だが中に入っていたのは、爪の半分ほどのエンマムシ1匹である。マナウスならどこにでもいる虫で勝手にカゴの隙間から入り込んだのだ。日本でいえばさしずめイエバエみたいなものだ。それが1匹入っていたから「ビオピラタリアだ」とはいえないだろう?どうにも連中の意図がわからない。 そんなことを考えているうちにようやくマナウス飛行場近くの連邦警察本部の広大な平屋の白い建物が見えてきた。

飾り罫

日本全体の8倍もの面積を持つアマゾナス州の首都マナウスだが、観光都市施設は実は少ない。世界からアマゾンにあこがれてきてもせいぜい見るべきところといえば19世紀末のゴム景気の遺物である「テアトロ・アマゾナス」と、私の作った「アマゾン自然科学博物館」しかない、と言っても実は過言ではないのである。これに加えてアマゾンの鮮魚類や農産物のあつまる市場を見たらもう正直言ってあまり観光するところは無い。

各現場の位置関係を示す図

それでも、私が移民で来たころは人口60万人の中都市だったのが、21世紀を迎えたころにはブラジルでも10指に入る新興大都市になった。これは地域開発をめざした1967年のタックスフリーゾーン政策の成果で、先進国から工業誘致に成功したからだ。私の博物館も20年前は郊外だったが、180万人の人口を誇る大工業都市に膨れ上り、市街化が進んだ今では、博物館の原生林は市内で数カ所しかない貴重な自然環境になった。

アメリカのFBIをモデルにした連邦警察の本部は私の博物館とは反対側の住宅開発地区にある。ここでは環境犯罪のほかに全国にわたる広域重大事件、外国人の出入国管理などを担当している。私を連行した男はエルデェー(Helder)といって、自然保護関係を扱う第五課のデカ長らしい。 小一時間かかって到着したのが午後5時ごろだった。

私とナカシタは取調室に連れて行かれて、型通りの認定尋問を受けた。名前の確認や、どこで生まれた、何年にブラジルに来たか、生年月日や現住所の確認などである。そのうち、博物館の専務であるイシザワと、カミサンまで警察につれてこられた。連中は博物館から押収した私の虫の標本がはいった沢山のプラスチックケースをトラックからおろして、廊下に並べ始めた。イシザワは7歳のとき両親と山形県から移住してきた男でポルトガル語は達者だ。「昆虫の密輸容疑だそうですよ」と言う。やはりそうか。だが、ケースの中身は博物館の開設準備時代に採集した虫ばかりだ。そのころ採集は違法でもなんでもなかった。「ビオピラタリア」になどなるはずもない。そうおもった私の脳みそは、ようやく仮死状態から脱しつつあった。

が、私はまだ事態の本当の深刻さはノミの頭ほどにもわかっていなかった。

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1時間半後の6時半ごろ、なんと知り合いの小林日本国総領事が通訳をつれて連邦警察に駆けつけてくれた。ブラジル人弁護士もやってきた。総領事はすでに、この事件が「昆虫密輸容疑事件」であることを私より詳しく知っていた。大事件としてテレビの午後6時のトップニュースで報道されたという。私は無論そんなこととは知らなかった。あとで聞くと、マナウス日本人商工会議所の友人がテレビのニュースをみて、これは大変だ、この国では無実でも有罪にされてしまう、とすぐ、領事館に知らせ、弁護士を手配してくれたのだ。総領事は館員を通訳に残してくれた。これは本当に助かった。

これもあとでわかったのだが、もし総領事や弁護士がいなかったら奴らは何が何でもその場で私を逮捕するつもりだったらしい。

本格的な取調べは午後7時から始まった。今度はこの捜査を指揮する上司「デレガード」(主任捜査官)の登場だ。ニバルド(Nivardo)という色黒の腹の出たデスクワークしかしないタイプだ。その尋問はなんとも拍子抜けするものだった。私の博物館から押収したピラルクの剥製の領収書を示して、「この値段は高すぎる。お前はこの中に虫を隠して密輸したのだろう」などアホなことをいう。

ピラルクはワシントン条約の第2項対象だ。つまり商業目的は禁止だが、学術目的の輸出は許可があれば問題ない。もちろん私の剥製はライセンスをもって正式に輸出した商品である。あて先はスペインの水族館だ。「値段が高いのは中に昆虫が入ってたからだろう」などというのはつまり、まるっきり証拠がないということだ。私は「2メートル以上もあるピラルクの剥製を作る技術はアマゾンでは私しかいないのだ。高く売れるのは質がいいからだ。ホンダのオートバイと同じだ。第一、水族館に虫を売ってどうする。そんなことは調べたらすぐわかるだろう」と言ってやった。総領事館のしっかりした通訳が側にいてくれるのはまことに心強かった。

取調べはニバルドが言ったことを、ポルトガル語から日本語に通訳して、私の返事をまたポルトガル語に直して通訳する。1分で済む話も5分も10分もかかる。ニバルドは30分もたつと、また同じ質問を繰り返す。それが気の利いた捜査のテクニックだとでもおもっているのだろう。無論、何度聞かれても私の答えは同じだ。時間はどんどんたっていく。そのうち腹が減ったのだろう、奴らは注文の宅配ピザを食い始めた。勿論私たちの分はとってくれなかった。私はナカシタと昼飯の残りの冷たくなった梅干入りの握り飯を食った。

この日、連邦警察は捜査員約15人を動員し博物館や私の自宅など4カ所を一斉捜索した。博物館からは大量の昆虫標本、ビデオカメラやパソコン、書類などを「証拠品」として押収していた。自宅やイシザワの家もガサ入れしたが、当然ながら押収物はゼロだった。

新聞記事

事件第1報を報じた現地の新聞。日本語英語に翻訳中

押収したからには明細をつくらねばならず、いちいち形状と品名をタイプで打って通 訳を通して、こちらに確認させる作業が尋問と並行して行われた。もう夜中になろうとしていた。ニバルドは「続きは明日にするか?」と家に帰りたそうな様子だ。私は、「いいや、朝までかかってもいい。続けてくれ」と答えた。徹夜マージャンは明け方にかけてが勝負だ。私はマージャンはそう弱いほうではない。

日付が代わって夜明けがちかづいたころニバルドは私よりもっと疲れ落胆した表情だった。「今日の午後、もう一度現場に押収品の確認に来てくれ」とだけいって取り調べは終わった。 私は、その顔をみて、やっとこの強制捜査の意味がわかった。やつらは証拠などなにもないまま、最初、現場で私を現行犯でパクって混乱させ、そこを叩いて無理やり自白させるつもりだったのだ。ブラジル警察は現行犯主義である。

そういえば、朝、現場に来る途中で交通検問をやっていた。そのとき交通警官の後ろにいたのが、ジャングルにきたのと同じやつらだった。私の顔を確認して、約3時間後、ちょうど「そろそろ虫が捕れたころだろう」とみはからって踏み込んで来たんだ。「カピツーラ」というポルトガル語の意味は「採集・捕獲」だ。あそこで私がうっかりカメラを持ったテレビ局員に「イエス」と答えていたら、やつらの思う壺だった。その映像を全国ニュースで流して証拠にするつもりだったんだ。ニュースでは私に虫を売った、と証言する色の黒い炭焼き男まで登場していたらしい。むろんまったく知らないやつだ。こうしたやつらの計算が私の語学力の低さと、総領事と通訳・弁護士がいち早く登場したおかげですっかり狂ったというわけだ。

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★3★  姿無き敵

新聞記事

17日の午前10時ごろ、イシザワ専務が市内の主な新聞をどっさり買ってやってきた。案の定、警察の言い分だけで書いた記事がでかでかと報道されていた。現地語の新聞ばかりか、数日後には現地邦字紙まで私を犯人扱いしていた。いまや私とアマゾン自然科学博物館は、日本の24倍あるこのブラジル国の国中にとんでもない悪名を馳せることになったのだ。

(なんと、この原稿を執筆中、日本の英字紙ジャパンタイムズにも「 Sunday, Aug. 19, 2001 Japanese held in Brazil over illegal trading in insects 」というタイトルで報道されていることを発見した。事件後8年経った今もしっかり私の「悪業」は世界に向けて報道されつづけているというわけだ。)

昼過ぎ、タワーの現場に出かけていった。機材の押収リストの確認をしろ、というのだった。ジャングルの中にたつタワー本体、自動温度測定器、自動湿度測定器、自動計測雨量計などだ。さまざまな研究資材には私が独自に考案したものも沢山ある。普段こうしたものは現地に置きっぱなしだから、タワーの周りには、髑髏のマークがついた「高圧危険」の看板を置いてある。ブラジル人は一般に電気に弱い。これでも十分泥棒よけになるのだ。 現場には警察のほかに、ブラジル国立アマゾン研究所」(Instituto Nacional de Pesquisas da Amazonia INPA)の職員がいた。テスターのようなものを持っている。電気関係の専門家らしい。看板を指差してなにか聞いてくるから、「みんなダミーだよ。うそうそ」というと、すぐ理解したらしくてニヤッと笑った。

この日は連邦警察まで自分の車で行って、それからやつらの車で現場まで行ったのだが、これでおしまい。一緒にまたマナウス市内まで戻って自分の車で帰宅した。 きのうの大騒ぎは一体なんだったのか。えらくあっさりしてるぜ。

帰宅するとブラジル各地の友人から電話がかかってきていた。てっきり私が逮捕されているものと信じていて、電話口にでると「えっ、いるの?」とびっくりする始末だ。そりゃそうだ。リオデジャネイロ、サンパウロはもとより、はるか南の諸都市の新聞にまでしっかり載ってしまったのだった。今や私はちょっとした「有名人」になったのだ。

3日目の18日も警察からは電話すらなかった。ただこのころから博物館と自宅の電話に異変がおきた。ようやく事件を知った日本の友人からの電話で話し出すとピーッと音がして雑音が入り、音量 が低下する。そのあと話し続けるとずっと「プーン」という音がするのだ。そして次の日、新聞を見ると、ある州会議員秘書の汚職事件で秘書とその仲間が大勢逮捕された記事が出ていた。捜査陣の苦心談も微細に報道されている。それによると、当局はわざとホシを泳がせて、その自宅電話と携帯電話をしっかり盗聴して一味を一網打尽にしたと自慢げに書いてあった。

なるほど。

私は以後、自宅と博物館の電話では一切、事件の話はしないことにした。

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さて、これからどうするか。まだ捜査段階で起訴されたわけでもなんでもない。弁護士も法廷戦術もなにもたてようがないのだという。すでに現場の機材は押収され、博物館の資料もない。自宅の電話は使えない。私はすることがなくなってしまった。

マナウスには現在、40数社の日本企業と約1500人の日系人が住んでいる。このうち進出企業と現地の日本人企業家の間での情報交換や友好を深める目的でアマゾナス日系商工会議所というのがある。私もその会員の一人だ。博物館の仕事や商売とは直接は関係ないが、アマゾンくんだりまで派遣されてくる日本人の中には大企業に勤めてはいても結構、豪傑やおもしろい人物がまぎれこんでいて、なかなか楽しいのだ。

こうなったら仕方が無い。弁護士も「あまり博物館にはいないほうがいいかもしれない」などというのでもっぱら朝から、この商工会議所にでかけていってコーヒーを飲みながら池波正太郎や藤沢周平の小説を読んだり、会員仲間や事務局の人たちとダベって暮らすことにした。

なに、顔のとっつきが悪いので信じられないかもしれないが、私はそういうことは結構好きなのである。事件が報道されたあとも、もともと州外からのブラジル人や外国人、それに日本人が多くを占めるわが博物館の客の入りに変化はなかった。ホッとした。糧道は確保されている。女房と19歳の長男を筆頭に3人も子供がいるのだ。入場者が減ったらアグリアスやタワーどころではないのである。

このあと警察から言ってきたのはせいぜいタワーの輸入証明書や、押収物件のなかにあった銃器の購入証明書を出せ、という程度だった。

それが月末になって突然「マナウス市議会に来い」というファクスが届いた。市議会で「昆虫密輸容疑者が博物館を開設しているのはおかしいから閉鎖させよ」という「市民の怒りの声」を取り上げる、というのだ。

起訴されて有罪になったのならともかく、起訴どころか逮捕もされていないのに、無茶苦茶な話だ。そうおもっていたら、市議会でもさすがにこれは沙汰やみになった。当然の結果 だ。だが、ブラジルでは日本では考えられないことが起こる。これは市議会で私を知る議員が抗議してくれたからだ、とあとで知った。そして、たまたまにはこちらにツキがまわってくることもある。この「市民の怒りの声」というのが実は「日系人をふくむ5人のブラジル人」の訴えだった、とそっと教えてくれる人もいた。

私はヒラめいた。「動物的カン」というやつだ。こいつらが連邦警察に訴えて私が密輸していると讒訴したのではないか。それが博物館の客も減らず、のんびり毎日気楽にコーヒーなど飲んでいる私の姿をみて、同じやつらが今度は兵糧攻めを狙ってきたのではないか。 しかし日系人がからんでいるだと? わからん。

友人のジャーナリストが書いた書物の題名とおり「アマゾンで日本人はガランチードと呼ばれた」というほど信用のある日系人だ。こんなことにからんでいるとはおもいたくない。(「ガランチード」は英語のギャランティされる、つまり保障つき、という意味だ。それほど信用があるのだ。)

ピラニアやカンジェロ、タランチュラや毒蛇など私は怖くないが、正体も習性もわからない敵、というのは正直、薄気味悪い。

私は移動はもっぱらナカシタ特製のカンガルーバンパーをつけた頑丈なトラックに乗り、外出時は道筋を毎回変え、外を一人で出歩くことを避けることにした。 ここでは30万円もあれば殺し屋だって雇える。 警察官横流しの押収品ブラジル製タウロス拳銃は弾付きで100ドルで買えるのだ。

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★4★  タワーとアミーゴ

9月が過ぎて10月になっても連邦警察はなにも言ってこない。容疑は森林開発保護法違反(生物密輸)だ。それに銃刀法所持だの、金庫の中にあった現金1万ドルあまりのでどころが不明だという。私は銃の所持許可証を示し、現金が運転資金や女房の金であることを説明した。それでも納得せず違法だというなら、さっさと起訴したらよさそうなものだが、検察庁に書類がいった気配がない、と弁護士がいう。ただ、日本と違ってブラジルの公務員は平気で45日も休暇を、それも事件の捜査中でもとるから、まあ、この程度なら驚くようなことではない。「起訴にたる十分な証拠」を求めてか電話は相変わらず「プーン」だの「ピー」だのという音を立てている。

まともな取調べを受けないまま事件発生から半年余りたった。私はもっぱら商議所で結構なコーヒーを入れてもらって読書三昧だ。夕方になると電話で友人を誘ってメシを食いにでかける。私は酒をのまない。現場がなくなって研究費もあまっている。事件のことを考えるより友達と遊んでいたほうが不愉快にならずにすむ。時には私が料理を作ってふるまった。私は料理が趣味のひとつなのだ。作れる料理は数百種類、カラオケは1000曲ぐらい歌える。毎日がパーティ気分だった。

こうして日系人はもちろんブラジル人のあいだにも、新しい「アミーゴ(友人)」が次第に増えていった。ブラジルでアミーゴを増やすのは難しくない。不思議なものでそうこうしていると、あちこちの「アミーゴ」たちから断片的な情報が入ってくるようになってきた。

その中に、「国立アマゾン研究所(INPA)の一部の研究者が私のタワーが欲しい、と話していた、というのがあった。そういえば、強制捜査の翌日、連邦警察の押収品の書類づくりに来ていたのはそこの昆虫部門の研究者だった。まあ、警察に虫などわかるわけがないので専門家として呼ばれてきていたのだろう、とおもっていた。また、いつか飛行場で出会った研究所の樹冠研究者N.H博士(日系)が「私たちもタワーが欲しいですが、高くて買えません」と羨ましそうだった。その後日本食レストランで会ったら私の顔をみて顔を背けたっけ。だが、まさか国立研究所が一私人の私を誣告するなど考えられない。

1954年に創立の「国立アマゾン研究所」とは、なんせこの国唯一の国立のアマゾン研究機関なのである。それまではアマゾンの生物はサンパウロから学者が来て研究していた。当時、大学院クラスの生物研究機関はサンパウロ州にしかなかった。ブラジル全土でも昆虫学科があるのはパラナ連邦大学などきわめてかぎられていた。そこで生物資源の世界的宝庫アマゾンに生物の研究所がないのは国の恥ということでアマゾン研究所が設立された。しかし、戦後のブラジルは日本など及びもつかぬ好景気が続いていた。当時は大学院出の先端研究者の給料は最低でも日本のサラリーマンの4倍以上。大学出のエリートは気位が高い。ど田舎アマゾンなど見向きもしなかった。

ただ、そうは言ってもINPAは植物学方面では結構な業績を持っている。1992年の環境サミットを契機に、ブラジル政府がアマゾンの生物資源保護のために学問の鎖国令とでもいうべき方針を決め、外国人の研究を一切認めなくなってからは、この国立アマゾン研究所が唯一の研究機関なのである。外国の研究所や大学がもしアマゾンで生物研究をしようとおもったらまずこことの共同研究、といったスタイルをとらざるを得ないのだ。つまりアマゾン研究のブラジルの顔、なのだ。それが1民間人に過ぎない私のタワーがいかにうらやましいからといって、まさか博士号を持つ研究者たちが、私を誣告するなんて考えられなかったのだ。多分私は自分の学歴コンプレックスがまだ抜け切れていないのだろう。

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年があけて2002年の3月のことだ。INPAの所長が交代することになった。新所長の就任を前にたまたま私の友人の日系人が新所長とも知り合いだった。で、その友人の家で新所長らを招いたスキヤキ・パーティが開かれたとき、私はそこでまたこのN.H博士にであった。話は当然、事件やタワーの話に及び、私は「うちの博物館から押収した標本はアンタのところで鑑定するそうだが、もう半年以上たつのに鑑定書がでてこなくて困るよ。いつ出るか調べてくれ」と頼んだ。ブラジルではこうしたパーティでの会話が役所経由の書類より何倍も早いことが珍しくないのだ。そして、そのとき何気なく、「あのタワー、連邦警察はいつまでほっておくつもりだ。もったいない。あれはタワーの基部のネジをはずしてクレーンを使えば、アマゾン中どこへでも簡単にもっていけるのに」とN.H博士に話した。

すると、約2週間後の4月7日に、タワーの立っている森の近所に住む知り合いの日系人からおどろくべき知らせがもたらされた。タワーがなくなった、というのだ。タワーが建っているところは、郊外の「エフィジニオ・サーレス( Efigenio de Sales)」という日系人移住地だ。養鶏農家が中心でみな知人である。その一人が「数日前、通りかかったら門扉が壊されていたので、今日、見に行ったらタワーがなかったよ」という。気象観測装置もテントもなくなっていたそうだ。

私はすぐ、連邦警察に弁護士同伴でどうなっているのか調べに行った。すると係官は「ああ、あれはINPAから移動申請がでたので、許可した」と一枚の紙を示した。それには「モーターやセンサーの一部が失われた。あの場所では保管に責任がもてないので自分たちの研究地に移して管理したい。また、地主も迷惑だと言っている。移動の費用は自分たちで払う」という意味のことが書かれていた。私は事件以来、タワーには近づかないようにしていた。途中に交通検問所があって出入りをチェックしている。うっかりいこうものなら「証拠隠滅に行った」などと言われかねないからだ。

ブラジルの法律では、事件はまだ捜査中であり、私は国外にでるときは裁判所の、町を1週間以上離れるときは警察の許可が必要だということになっている。郊外にでかけるのはこの限りではないが、なに、用心にこしたことはない。しかし、少なくともタワーの土地が立っている「エフィジニオ・サーレス」の地主は移民の成功者で、友人でもある。タワーは広い所有地農地の一角に立っており、間違っても「迷惑だ」などというはずがない。実際、「迷惑だ」どころか彼らは地主の許可もなく門扉を壊して持っていったのだった。そこで、友人たちに、タワー移動時の目撃者がいないかどうかを聞いてもらった。数日後、「赤いフィアットに乗った日本人らしい二人が現場に立ち会っていた」という証言を得た。「赤いフィアット」なら、たしかにあのパーティで私がタワーのことを話したINPAのN.H博士が所有している。偶然だろうか?

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事件から9カ月。このころになるとさすがにこちらも冷静に物事を考えられるようになってきた。事件発生直後には見落としていた新聞記事や、関係者の話をもう一度検討する余裕があった。だから、面倒なブラジル語の新聞記事も友人の協力をえて読み直していった。事件の10日後ぐらいの記事でINPA所長のケリー博士(kerr)が発言しているのを発見した。

この所長はスイス系帰化人でハチを専門とする学者で、その地位は国立大学の学長に匹敵する。それほどの人物がなんと「橋本は有罪で、あのタワーはいずれ我々のものになる」と話しているではないか。おいおい、待ってくれ。この時点でINPAはせいぜい「押収物件の鑑定人」に過ぎないはずなのに、そこの長たるものが新聞記者相手に、起訴も逮捕もされてない私の持ち物が「自分たちのものになる」とういうのはベラボーな話だ。よほどの自信、確信がなければこの発言はでてこない。

そしてパーティの数日後、INPAから出された「鑑定書」の内容や地元紙の記事をみて驚いた。押収された私の標本は「商業目的の所持に限りなく近く、密売目的とおもわれる」と根拠も示さず書かれていた。さらにその記事には「最近あきらかになった他の密輸犯人と連携をとっていたのではないか」などと書いてある。これはちょうどパーティの開かれた日だったが、スイス人が6人、昆虫密輸容疑でマナウス空港で逮捕された事件があったのだが、そのスイス人たちと私が関係があった、とINPAのウエリントンなる男が断言までしている。どうやらINPAと新聞もグルらしい。

ブラジルの法律では、タワーの保管者が適切な口実、例えば「タワーの性能試験」などという名目さえたてばその機材を裁判で判決がでるまで使用してよい、ということになっている。ここで初めて、私はこの事件の目的が最初から私のタワー乗っ取りを狙ったもので、それに国立の研究機関であるINPAがからんでいることが、まったくあり得ないとも言い切れないような気がしてきた。

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★5★  連続攻撃

私は虫屋だ。たいした取得はないが我慢強い。夜、寝るとき蚊がいても蚊取り線香や殺虫剤は要らない。じっと、カの動きと所在を確かめて手で殺してしまう。この特技は結構知人には感心される。なに、相手の居場所と習性がわかるから簡単なのだ。草の葉にとまった小さな擬態したムシを見つけるなどお手の物だし、目当てのムシをみつけたら、ハチが自分の体にとまっても動かないでいる自信がある。タワーと私の博物館を狙った相手はまだはっきりとはわからない。現在、私のできることはじっと待って耐えることしかない。だがそれは私の得意技なのだ。

ブラジルの法律では一応、事件捜査は90日で終えることになっている。だが、私の事件は半年たっても一度も私自身の取調べのないままだった。弁護士によると90日たったときは「INPAの鑑定書が出ていない」という理由でさらに90日延長された。その後は、「コロンビア国境で橋本が密輸した証拠を調べている」という理由でさらに90日延長、その次は「脱税容疑がある」という理由で60日、さらにはデレゲードが転任して、後任の2代目女性デレゲードが手術のため休暇をとったから、という理由で30日の延長になった。もう事件後1年半もたってしまっていた。

2002年の12月、ようやくタワーの現場で動きがあった。タワーを撤去したが、残されていたトランスが無くなっているのを、やはり日系人移住地の知人が気が付いて電話をくれた。幸い以前警察に勤めていた男が目撃しており、現場からトランスを持ち去ったトヨタのピックアップ型トラックのナンバープレートを控えていてくれたのだ。私は弁護士を通じて、連邦警察ではなく、このような窃盗犯罪を担当するアマゾナス州警察に盗難届けを出した。

その結果、トラックの持ち主はINPAの幹部で無脊椎動物(つまり昆虫)部門のボスのラファエル(Rafael)のものとすぐ判明した。警察からの照会にやつはINPAの文書を持ってきて、「証拠品保全のために移動した」という。タワーを持っていったのが4月、それから8カ月もたってなぜINPA幹部がトランスを取りに来たかはわからない。私はまだ黙って様子を見ているしかなかったが、「赤いフィアット」といい、このトヨタといい、どうやらINPA幹部や研究員が少なくともこのタワーに並々ならぬ関心を抱いていることは確かなようだ。この事件の捜査書類は後に2度も「紛失」していまだに行方不明だ。

捜査期間の一応の期限が90日と決められている一方、容疑者を立件し起訴する期限は通常2年間である。2001年8月16日に事件として私を連行しておきながら、そのまま取り調べも無く2年が過ぎて2003年夏になろうとしていた。さすがに私ももう終わりだろう、と期待した。ところが弁護士が連邦警察に行くとそうではなかった。連邦警察の親玉は「実は、ウチではこの事件の調べはもう終わって、これ以上の捜査を私たちは諦めた。だが、ブラジリアの方がうるさいのでもうしばらく待って欲しい」というのだ。

「ブラジリア」は連邦政府である。前の年の2002年7月にそこの環境問題委員会の議員たちがアマゾンに視察にやってきた。そのときの新聞記事にご丁寧にもINPAが「現在、橋本という悪質な密輸業者を捜査中」という説明を彼らにしたことが新聞記事に当時の写真とともにでかでかと載っていた。捜査機関でもないのにINPAは明らかに私を敵視している。

このころブラジルでは「アマゾンの遺伝子が国外流出しており、その損害は1日160万ドルにも上る」などという記事が大きく新聞をにぎわし、環境問題ナショナリズムが巻き起こっていた。どうやら私はその「遺伝子流出」の悪玉 にされそうになっているらしい。「文句があれば帰れ」と言われる移民の悲しさである。ナショナリズムの嵐の前には黙っているしかない。ナショナリズムが吐け口を必要とするのはどこの国でもおなじだ。議員も警察もマスコミも犠牲の羊を求めている。私は鼻のアタマにハチがとまった羊だったが「めー」とも鳴かず我慢していた。

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2003年暮れごろからは奇妙な事件が頻々と起きた。 12月2日のことだ。私が借りていた日本人会館の部屋から税務関係の重要書類が紛失した。ちょっとゴミを捨てに外にでた10分足らずの間に、数十ページもある書類の山から大事な数枚の書類だけが消えた。その1週間後に国税局の査察が入り、その書類がなかったために私は1万数千ドルの税金を払う羽目になった。痛かった。が、この国ではこと盗難に関しては「盗まれるほうが悪い」のである。税務署は結構、私に同情的だったが、それは私が金を払うしかないと知っていたからだろう。

ただ、この盗難と同時に連邦税務局に正体不明の男から「ハシモトは脱税している」という告発があったことを後で知った。どうやら姿を見せない敵は「密輸」を連邦警察が立証できないとなると、今度は執拗に「脱税」で攻撃をかけてきたらしい。しかし、「脱税」となると連邦警察ではなく税務署の管轄だ。税務署は税金さえ払ってもらえば文句はない。最初の「月賦」を私が払ったのを確認した段階で、「ハシモトには税法上の瑕疵はない」という証明書をあっさり出してくれた。私は上得意、というわけだ。

不思議なことに2004年9月22日、この月賦の支払いが終わった2週間後、私の留守中、博物館に3人組の強盗が入り、カミサンを縛り上げてガムテープでさるぐつわをかませ、館長室の金庫を荒らそうとした。もし油断していたら払い終わった納税関係の納入証明書類をまた盗まれてしまうところだった。もちろん、このときは用心していたから、金庫に書類などは入れてなかった。その1週間後に、やはり偶然のように「税金のことで話を聞きたい」、と今度は連邦警察から呼び出しがあった。私は「そらきた」とばかり、公証人役場でコピーした書類をすぐさま提出してやった。

襲われたカミサンはといえば驚いたことにえらく気丈なタチで強盗事件にさしたるショックもうけず、数日後にはその一件をおもしろおかしく自分の冒険談にして日本の友人たちにメールしていた。まあ、アマゾンの変人といわれる私の女房になるぐらいだからタダの女ではないが…。これで「ワタシもういやょ!日本に帰る」などと泣き喚かれたら私も困っただろう。よほど褒めようかとおもったが、池波正太郎が「女房なんてえものはほめるとどこまでもつけあがりやすぜ」と愛読書の「剣客商売」の中で四ッ谷の弥七にいわせていたのを思い出してやめておいた。女房は「アンタあんなタワーを残してあの世にいっちゃったら、あんなのバンジージャンプの台にしかならないんだから、しっかりしてよ」といいやがった。褒めないでよかった。

信じられないことだが、この他にも警察内部で私に有利な調書や証明書類がなくなったことも再三あった。最初は驚いたが、アミーゴたちはそれはこの国では当たり前だ、という。だから、あらゆる重要文書は公証人役場で複数つくって、コピーしてある。税金だ、銃器だ、証明書をだせ、といやがらせのような命令が相次いだが、すぐさまコピーを出してやった。やがてこの種の書類紛失はパタッと止んだ。

連邦警察で私の事件を担当した何代目かの、アマゾナス州外から来た若い女性デレガーダ(主任捜査官)は、「この事件の関係調書類だけは改ざんできないようにビニールコーティングして通しナンバーを振ったわよ」と言って笑った。彼らもバカではない。「アミーゴ」たちがなにをするかわかってはいるのだった。

そうこうしているうちに、私の事件はなぜか法律の規定の2年が起訴タイムリミットではなく、その倍の4年、ということにされてしまった。どうしてそうなったかは弁護士の説明ではよくわからなかった。ポルトガル語の問題だけではなさそうだった。2003年秋、私は弁護士を変えた。これが大正解だった。

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★6★  スーパー弁護士

ワシントン弁護士を紹介されたのも「アミーゴ」からだった。元アマゾナス州警察のデレガードだった時、ブラジリアにあるデレガードを対象としたポリスアカデミーの教官に抜擢された捜査官あがりだ。年金がついたので辞めて弁護士を開業した、という。いわば日本なら「ヤメ検」だ。マナウスのデレガードの大半が彼の弟子や部下だ、という。

ブラジル人にめずらしく痩身で、鋭い目と鷲鼻の大学教授のような風貌である。話し方は論理的で、口下手の私の説明をいらだたしそうにさえぎって、「もっと冷静に筋道をたてて話せ」と何度もいう。他人に眼を読ませないため外では背広ネクタイ姿でも常に濃いナス型レンズのサングラスをはずさない。勉強家だというのはすぐ分かった。刑事事件が専門だが、私の事件を扱うことになりそうだ、となると会う前にすでに森林保護法や環境関係の本を何冊も買って読んでいた。

ワシントン弁護士の動きは早かった。1月もたたぬうちに、連邦警察に私のことを「タレこんだ」男が事件当時INPAに勤務していたエスチンゲル  (Estinger)というブラジル人だと突き止めた。事件の数ヶ月前こいつが連邦警察の署長に会っていた。本人はINPAの樹冠部門担当の職員。つまりトランスを持ち去ったトヨタのピックアップ型トラックの主のラファエルの友人というだけでなく、3日にあげず一緒に酒を飲んでいる「ベン・アミーゴ (bem・amigo)」(親友)の間柄だという。そればかりか、この男がしばしば連邦税務署に出入りして、私を捜査しろ、と告発していることも調べてきた。

また、その後勤務先が生物資源盗難防御局(SIPAM)に変わったエスチンゲルは、自分の職務権限を使って国境警備隊にコロンビア国境付近でハシモトが密輸している証拠を探させていることもわかった。そうか、「実行部隊」はこいつか。 私や他の弁護士が何年もかかってわからなかったことがどうして短期間でそんなにわかるのか不思議だ。彼は「ブラジルにはブラジルのやりかたがあるんだ」と笑った。弁護料はびっくりするぐらい高かった。私は文句を一切いわずに支払った。

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これより先、私を被告にして連邦警察がたった1件だけ立件して裁判所に送った事件があった。密輸容疑ではなく、なんと私が自分のタワーの付属部品のモーターと気象観測センサーを盗んだ、というものだ。INPAの連中がタワーの側にあったそれらを移動しなかったものだ。それがいつのまにか紛失したという。それが私の仕業だと?あまりばかばかしいので裁判になったことさえ最初は信じられなかった。日本では考えられないが、デレガードのもとに新たな告発が届き、奇怪にも、なぜかまったく別件の事件として起訴されたのだった。結局これが唯一裁判所までたどりついた事件だった。

その初公判が2005年の6月にあって、私はワシントン弁護士と出廷した。すると裁判長はいきなり「和解」を勧めてきたものだ。「嘘だろう、冗談じゃない」である。これは「犯行を認めれば執行猶予にしてやる」というみたいなもので「アコルダ」(acorda)という制度だ。本来は、弁護士費用が払えないなどの事情のある微罪に適用される。

冗談ではない、私はドロボーという汚名をきせられかかっているのだ。交通違反の反則切符を切られているんじゃない。事件以来一度もタワーのあったところに行った事の無い私がなんでどこの誰ともわからん告発者に負けて「和解」などできるものか。私は断固、正式裁判を要求した。

制度上、告発者は被告側にはわからないことになっている。しかし、ワシントン弁護士はたちまちこの告発者らがINPAの昆虫部門の責任者であるラファエルと、8月16日のテレビで、私に虫を売ったと証言していたサジ(Sady)という色の黒い炭焼きの男であることを突き止めた。そして、正式裁判の準備中、州レベルの犯罪歴コンピューターの私の記録が「前科者」に分類されている事も発見した。前科者だと、それだけで裁判では不利になる。すぐに異議を申し立ててこれは「何かの間違い」ということで訂正された。むろん、誰かの「アミーゴ」の仕業だったのだろう。  

正式裁判の審理はあっけなく一度だけで終わった。というのは裁判所に現れたラファエルとサジは「ハシモトが盗んだと証言するのか?」と裁判官に聞かれて「ハシモトが犯人かどうかはわからないが、紛失したのは確かだ」と答えたものだ。「ハシモトが盗んだ」と告発した男が自分で自説を否定してしまった。これには公判担当の検事も苦笑するしかなかった。これまで一切反撃しようとしない私をなめきっていたので、ワシントン弁護士が事件の担当とわかって泡食ったのだろう。

ワシントン弁護士は周到にもハシモトが一切現場に行ってないという警察側の証人まで用意して、もし証拠もなく私を犯人だ、と証言したらすぐ彼らを名誉毀損で訴える準備をしていた。ブラジルでは名誉毀損は重罪で罰金ではなく実刑なのだ。審理はこの日の1回だけで終わった。当然、私はすぐ無罪判決が出ると思っていた。

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しかし、この「モーター・センサー盗難告発事件」裁判では肝心の判決はずっと後まで出されなかった。「本件は密輸容疑事件との関連であり、そちらが決まらないうちは判決がだせない」という。バカバカしい。起訴するときは平気で「別件」を起訴しておいて、判決を出す段になると、私に有利な判決は出せないという。

すでに事件発生から4年が経つ「密輸容疑事件」の方は「捜査中」がまだ続いている。「2年」がリミットだったのが、4年になって、それも守られる様子がないまま5年目にはいった。その理由を改めて問い合わせるとあきれたことに、「モーター・センサー盗難告発事件の判決がでておらず、審理中だから」というものだった。

「ニワトリが生まれないのは卵がないからだ」、いや、「卵がないのはニワトリがいないからだ」というサボタージュである。しかし、私は氷河の上に繁殖するシアノバクテリアのようにクールだった。このころにはこちらも「アミーゴ」が増えて、INPA内部の様子も伺えるようになっていた。どうやらINPA全部が私の敵というわけではなく、昆虫セクションとタワーの欲しい樹冠セクションの連中の「連携プレー」らしいと、裁判を通じて敵の正体の一部をつかんだだけでも収穫とせねばなるまい。

さらに1年がすぎた。すでに2006年8月だ。事件発生以来丸5年である。この間、連邦警察から「密輸事件」に関して紙一枚の証拠も追加されていない。だが、INPAは堂々と私のタワーを使って「研究活動」を続けているという。学会では違法に取得した機材を使っての研究成果は論文として認められないが、ブラジルではINPAのタワー使用は違法ではない、ということになるから平気なものだ。2007年のノーベル平和賞はアメリカの元副大統領ゴアとIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)の530人の科学者がもらった。科学者達は地球環境のデータを提出した功績だった。がこのうちブラジル人学者が提出したアマゾンの気象データの1パーセントぐらいはINPAが私のタワーや気象観測装置を使って観測した分もあるのではないか、と疑っている。

しかし、ここまで来てようやく敵の弾も在庫が少なくなってきたらしい。まったくといっていいほど動きがなくなった。それでも、私は、車ででかけるときは毎日コースを変え、万一の車爆弾にも用心して、変な音がしなくなって久しい電話でも事件の話をしない。もうこれは習性になってしまった。事件のことは家族にはあまり話さないようにしていたのだが、事件当時19歳だった長男も24歳になって自分から博物館の仕事を手伝うようになった。難しいピラルクの水槽の温度・水質管理のノウハウなど私の秘伝も大体教えた。長女は国立アマゾン大学の生物学部で勉強している。もう、私の身に何かあっても彼らは自分たちで生きていけるだろう。

私は初めて反撃に出た。

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★7★  ハットトリック

州レベルの裁判所はまったくやる気がない。まさか裁判所も敵のアミーゴだらけ、とはおもいたくないが、少なくともこのままズルズルいつまでも先延ばしする姿勢は、わがタワー使い放題の敵を喜ばせるばかりだ。

しかしながらそもそも起訴さえされていない「密輸事件」で無罪判決を得る方法などあるわけがない。そこで、ワシントン弁護士は一計を案じた。「これは違法な引き延ばし捜査である」とブラジリアの高等裁判所に直訴するのだ。

州レベルなら「卵とニワトリ」を理由に、連邦警察と連邦裁判所アマゾン支部の連携サボタージュもできようが、いきなりブラジリアで勝負するなら勿論、連邦警察にも裁判所にもわからないだろう、というわけだ。

田舎の百姓が、江戸町奉行所に駆け込み訴えするようなもんだが、この「奇襲」は「義経の鵯越の逆落とし」のように大成功した。

2006年11月にブラジリアに書類を送って訴えを起こした。その結果 、なんと翌年2月末には判決が下りたのである。ブラジルでは「驚異的な速さ」である。まるでアイルトン・セナ(Ayrton Senna).が裁判官をやったのではないか。判決も素晴らしかった。「本件は無意味な引き延ばし捜査と認め、速やかに本件を終了せよ」という内容だった。3人の裁判官の合議で3人とも一致した結論である。3-0。ハットトリックだ。

これは20日間の異議申し立て期間をへて3月中旬の官報に掲載され、確定した。3裁判官の一致ということでたとえ異議がたとえばマナウスの連邦警察からだされたとしても、判決はくつがえらないだろう、「完勝だよ、ハシモト」とワシントン弁護士は自信を持って言った。ブラジルの裁判にも「正義」が残っていたらしい。 このとき、2年間の捜査期間をさらに2年間延ばした連邦警察がこの1年、1枚の証拠書類も追加していない、のが判決の有力な決め手だったと聞いている。つまり、むなしく待っていた最後の1年間もまるきり無駄というわけではなかったのだ。この事件には最高裁というものはない。つまりこれで最終の確定、なのだ。

ここまで来る間、ナカシタは「なんでここまでやられっぱなしで黙っているのですか」と反撃しようとしない私に何度も不満をぶちまけた。時には喧嘩にすらなった。だが、私は「おれたちはこの国では移民なんだ。文句があるなら帰れ、といわれてしまうだけなんだ。だから、時が来るまで我慢するしかない。しかし、この国にもまっとうな人は必ずいるし、司法だって全部が腐っているわけではない。」といってきたのが正しかったのだ。この判決が出ると、先の「ニワトリ卵の論理」で判決が出されないままになっていた州裁の「モーター・センサー盗難告発事件」の無罪判決がすぐさま出たものだ。廃鶏のような裁判所がパーティが終わるころやっと卵を産んでくださったってわけだ。ありがとうよ。

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しかし、判決がおりてからタワーを本当に自分の手に取り戻すまでには、なお1年以上かかった。

その理由は、ブラジリアの判決が、「密輸事件」「脱税事件」に関する捜査に限って「打ち切るべきだ」、という内容だったからだ。これだとタワーや関連部品の押収物件は「森林開発保護法」に属しているため、「別の事件の捜査」ということで州裁判所の環境裁判所管轄になるのであった。起訴さえされていないのに「別の事件」だというのだ。

そして、その件を判断する州裁判所の環境裁判所なるものは、年に数回しか開かれず、裁判官の長期休暇、不在などを理由に5カ月以上にわたって開催されなかった。なんと眠り病にかかったような関係書類がこのやっと行くべきところにたどり着いて、州裁判所環境裁判所で審理が始まったのは08年1月になってからであった。そして、そこでさらに審議すべきかどうかが検討され、最終的に判事と検事が「この件に関してはタワーを返却すべきである」という結論に達してサインが出されたのは08年の5月のことであった。この間のワシントン弁護士の活躍がなかったら、おそらくいまだに書類はどこかで眠りこけていたことだろう。州裁判所はまだ19世紀なのだ。

ブラジル地元紙EmTempo 紙の写真説明
裁判の遅れにより4千の昆虫と機材はアマゾンで活動していたバイオ密輸容疑者へ返還される。

新聞記事

2001年の8月に連邦警察が押収しINPAが保管、鑑定のためとして保管・展翅していた標本が返還されたことを伝えるマナウス地元紙。箱に入っているチョウはINPA側が鑑定と称して展翅したもの。4割が痛んでいた。(08年6月19日付のブラジル地元紙)

新聞紙面

事件を伝えるEm Tempo紙 [訳文頁]

もともとありもしない「密輸容疑」の捜査から、「脱税容疑」となり、ついで、「密輸容疑」の捜査中押収された銃器類(所持許可証に問題はなく、提出したあとその許可証が何度も紛失したが、そのたびにコピーを再提出した)の「容疑」となり、さらに「密輸容疑」で押収されたタワーの返還は、また別の「容疑」に姿を変え、さらにどれひとつ起訴さえされていないにもかかわらず、当局が押収したものは返還されないという摩訶不思議なお役所仕事であった。「容疑」だけで7年も引き延ばせるなら、私に対する「黒魔術を使って世界平和を破壊しようとした容疑」だって成立しかねない。

昆虫標本写真

INPA昆虫セクションが展翅したカナエタテハ標本。パラフィン紙で翅の上からのり付けしてある。こんな「展翅」は小学生でもやらない。

タワー返還命令をうけたINPA側はなおぬけぬけと「90日の調査期間」を求めた。当然私が拒否したら今度は弁護士の不在を理由に引き延ばしにかかった。こいつらは私にお迎えが来るまで返すつもりなどないのだ。もう笑って戦うしかない。

結局、彼らの弁護士も連邦高裁、州裁の正式書類をこれ以上無視すれば今度は私が奴らを訴えるとわかったのだろう。08年6月18日に彼らが「保管」していた標本箱が返還された。返還時に立ち会った昆虫部門のある男の職員は手を広げて「返さない」などとテレビ局のカメラに向かってポーズをとり、翌日の新聞には「橋本の容疑は晴れていない。容疑者に返却するのは無念だ」というような責任者のコメントがのった1ページもある記事が掲載されていた。

昆虫標本写真

NPA昆虫セクションがが展翅したアグリアス。彼らによれば1頭何千ドルのチョウチョなのだが、無惨な姿に。元の私の標本は一切傷などなかったのだ。

昆虫標本写真

「標本の識別と札付けに従事してきたが、この度の裁判所からの命令でショージは全部持って行ってしまう。とても悲しいことだ」と語るINPAの昆虫学修士のカタリーナ・モッタ女史

昆虫標本写真

NPA昆虫セクションが展翅したマエモンジャコウアゲハ。どうしたらこんなにボロボロになるのかわからない。

それでも弁護士がワシントンだ、と知った新聞社の幹部が記事の表現を弱めた、ということだ。標本はといえば、とてもプロが「保管」していたとはおもえない無残な状態であった。このとき私は、連中は本気で私の標本が欲しかったのだ、とわかった。日本なら小中学生の夏休みの宿題レベルの展翅技術を、プロのはずの職員が持っていないのだ。まさか、と疑いをお持ちのむきは標本をみてご自分で判断してほしい。

この「鑑定のための標本づくり」の責任者のカタリーナ・マッタ(Catarina Motta)女史はワニのような涙をうかべて「一生懸命調べて同定した私の仕事をぜんぶかえせと言われて悲しい」などと新聞にコメントを載せていた。冗談じゃない、悲しいのは標本をメチャメチャにされたこっちだ。

同じ日彼らの研究地域に立っていたタワーも見に行った。7年ぶりの再会だ。私にとってはイチローのバットの様に大事なものだった。製作者 愛知タワー工業 の堀部進社長みずからはるばる2度もアマゾンまできて建ててくれたものなのだ。それが、むちゃくちゃな使用と勝手な改造で鉄骨は曲がり、 配電盤はめちゃめちゃ

鉄骨の曲がったタワー上のステージ部分

無惨に曲がったタワー上部の籠。
7年11カ月、手入れもロクにされず酷使された姿だった。傷ついたタワーは私の夢と名誉そのものでもある。

安全を確保するセンサーは改造で機能せず、昇降のプーリーも異常な片べりがみられ、あちこちに訳の分からない切り込み跡がついていた。あと数ヶ月そのまま使われていたらただのスクラップになっていたろう。これが彼らの言う「保管」なのだ。私は「すまん、必ず私が元通りになおしてやるからな」とタワーにわびる思いだった。本来なら、やつらが勝手に持ってきたのだから返還義務はINPAにあり輸送責任も彼らにある、というのが道理である。が、こんなところに1日も余計においておく気になれなかった。私は自費でクレーン車を雇って23日、タワーを博物館の庭に運んだ。拉致された娘をやっと取り返した気持ちだった。

INPAの嫌がらせはまだ続いた。私はテレメトリーやタワー再生の部品を購入したり、心配してくれた日本の友人たちに会うために6月中に、日本に出発する予定だった。その直前、INPAの昆虫部門の連中が「ハシモトの容疑は晴れていない。あの昆虫標本はまだ自分たちが保管せねばならない」と副所長のサイン入りの文書で州の裁判所に訴えを起こしたのだ。なにがなんだかよくわからんが、私の勝訴判決はまったく記事にならなかったというのに、こちらの方は「ハシモトは裁判で無罪になったわけではないので、容疑は消えていない、とINPAは標本の返還を求めた」などと1ぺージも使った記事になっている。だが、ワシントン弁護士は「なに、負け犬の遠吠えさ。私にまかせてお前は日本にいってこいよ」と言って笑った。

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昆虫標本写真

NPA昆虫セクションがが展翅したアケボノタテハ。左下の翅を補修したあとがみえる。

この戦争はまだつづきそうだ。足掛け8年、もう残りの人生のカウントに入っている私にとって何よりも貴重な時間を失い、長年、積み立ててきた研究資金はみな裁判費用に消えて借金の山が残った。が、私はこの期間、多くの友人、アミーゴに支えられて生き延びることができた。敵の正体も明らかになった。

INPA全体ではなく、その一部の腐った連中が昔の軍政時代同様、このブラジルの「僻地」が自分たちの思い通りになると勝手にやり放題やったことなのだろう。ブラジルでは一定期間、土地を占拠・占有すると自分のものになるという「ウーザ・カンピオン(usa campeão)」という法律がある。本来は広大な土地の開発促進のためのものだが、これを悪用した犯罪が跡を絶たない。プロの集団までいる。これはインバゾン(Invasao 英語のinvasion、侵略)という。日本の企業や農業者が狙われることもある。私のタワーや標本もやつらは「インバゾン」しようとしたのだ。

だが、もう時代は変わった。地球環境がこれほど大きな問題になっている今、アマゾン研究は世界全体が注目している。その中心でこのような一部研究者を名乗る「バイオ・マフィア」(Bio Mafia)の横暴を許しておくのは、私の愛するブラジルの自然と、INPAにもいる人をふくめ真面目な生物研究者達の為にもゆるされることではないし、そうしなければアマゾンに未来はない、と私は信じている。

私はまだ私の血を吸った「蚊」をピシャリとつぶしてはいないのだ。

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飾り罫 似顔

長い馬鹿馬鹿しい私の戦いの物語をここまで読んでくださったみなさんに心から感謝します。この事件と現状を一人でも多く知って貰うことはそのまま私の「元気の素」になります。戦いはまだまだ続きそうですが、沈黙の時は終わりました。これからは当サイトと併設する予定のブログで名誉毀損の訴えをはじめ、事件の全容・真相解明まであらゆる闘争局面の報告を続けることにします。

(2008/7/28 東京にて ハシモトショウジ)

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